冬の巻第五章 幸福な結末

百七十一 尚侍の里居


尚侍(ナイシノカミ)二十一歳の秋でございました。

七月に尚侍の君は「五ヶ月」と奏上されて、退出なさったのでございます。右大将殿は御喜びなさること限りがございませんでした。

尚侍の君は、このようになっても、最初の幼い若君の事が思い出されて、月日がたつにつれて世の中も慌ただしなり、今どうしているのかどうか気になるのですが、万事の内裏(ダイリ)の勤めを投げ出して身を隠してしまい、権中納言と契りはしたものの男の帰りを嘆き過ごして、宇治の橋姫の如くであったことを思い出しておられたのでございます。

今は右大将殿のよすがで里帰りしても、権中納言は吉野ノ宮の妹君と一緒にいて、侍女たちと話してふざけ合っているのを聞いていると、昔から何事も伴に語り合って、ついにあさましい世にない身の有様まで探られて、契りはしたものの浮気ばかりされて絶えきれず、幼い若君を置いて去ってしまったのですが、若君の無心の微笑みの顔ばかりが思い出されて、権中納言の声を聞くと、無性に哀れで涙がこぼれることが折々にあるのですが、「見とがめる人がいたら怪しまれるとまずい」と涙を拭っておられるのでございました。


百七十二 再び四の君と尚侍の出産

右大臣家の四の君(元々右大将の正妻)が二条邸で出産される為に八月の末日にお移りになられたのでございます。右大将殿がお通いになり扱われるのはたいそう望ましいのでございました。四の君が権大納言の子である姫君たちを具合いが悪いのでお連れしなかったのですが、右大将殿もあえて「どうしたのか、連れて来たら」とも申しあげなかったので、「人の噂は嘘ではなかった」と左大臣様なども想像なさっていたのでございました。

九月一日の頃、たやすく若君がお生まれになりました。右大臣様、右大将殿も限りなくお喜びなさいました。この度は、「どうであろうか」と心配することなく出産して、誕生祝いや何やらとなさるので、四の君の父の右大臣様も大喜びでございました。

尚侍(ナイシノカミ)の君も、御聞きになると、様々な過ぎ去ったことが思い出されて、「四の君の初めの姫君の七夜(シチヤ)の事も、後の姫君のことも、当時行へ不明になっていて、たいそう心苦しく聞いていた」などと、人知れず思い出されて、まるで夢のように思われるのでございました。

この度の若君は、女君とは少しも似ておらず、ただ右大将の顔を写したように似ておられるので、左大臣様なども、たいそうあはれで嬉しく思っておられるのでございました。

それにつづき、尚侍の君の御出産が近くなり、皆一筋に祈りながらお世話申し上げていると、余り苦労もなく男子の宮がお生まれになったのでございます。このところ東宮にも男子がおられず、昼夜を分かたず多くの神仏に祈祷されていた験(シルシ)であるのでございましょうか、このように思いがけなく、高貴で輝かしい一族からお生まれになったことを、誰も彼もがお目出度い慶事と思い驚きなさったのでございました。ご産室の祝宴も想像を絶したものでございました。三日の夜は左大臣殿、五日は東宮の長官、七日は宮中より、九日は右大将殿と心々に工夫をなさり、心を尽くしてお祭りなさったのでございました。たいそう目出度いことでございました。
常以上に事を添え、御宴遊や何やかやと限りなく華やかでございましたが、尚侍の君はあの幼い若君のお姿を忘れたことはございませんでした。若君の可愛らしさと力強さに王家の品をお感じになり(権中納言は皇族一人息子)、「ただ人知れず生まれて来てしまったので」と思われて、たいそうあはれで、涙をこぼされるのでございました。

ひたぶるに 思ひ出でじと 思う世に

 忘れ形見の 何残りけん

ただひたすらに思い出したくない頃でございましたが、忘れ形見の若君だけは心に残り、忘れることが出来ません。)

とお心の中にずっといらっしゃるのでございました。


百七十三 人々の昇進

その頃大臣職の任官があって、右大将は兼任で内大臣になったのでございました。次第に以下の職も昇進して権中納言は大納言になられたのでございました。

喜ばしいことでございますが、尚侍の君は昔中納言になった頃を思い出されて、中納言の妻の四の君が秘かに宰相ノ中将(今の権中納言)に「人に知られていない貴男様を慕っております」という歌を送って来たことを思い出して、あたかも昨日のことのように思い出し、喜びも冷めてしまうような気がして、目に涙を浮かべていたのでございました。

幼い若君をお迎えになり、吉野の妹君にお預けになったのでございますが、たいそう可愛がって抱きしめておられるのを見て、夫の大納言も嬉しそうにしておられるのでございました。

幼い若君の乳母(メノト)は、急に行方不明になった人を、「この吉野の妹君では」とほのかに心得ていたので、このように権中納言がご結婚されて幼い若君を迎えられたので、「行方不明になった人を聞いて探し出されたのだ」と思い、たいそう嬉しい気がして、「また参って、日頃の物語をさせて頂こう」と思っていたのでございます。

幼い若君の可愛らしさに、乳母(メノト)にも恥ずかしがらず、ほのぼのと見えたのですが、かつてご覧になった人ではなかったので、残念でがっかりしたのですが、本当の母よりもかえってたいそう可愛がっておられるので、どうしようもなく切なく悲しかった心も慰められる心地がするのでございました。

大納言がおられない時に、御前に付き添って物など申し上げると、たいそう親しみがあり、心も美しくお話なさるので、嬉しくて、「この幼い若君の母上様は離れて行ってしまわれました。その美しいご容貌、様子のめでたさは飽きないほどでございました」などと、隔てなく語り申し上げて泣いてしまわれたのでございます。

吉野の妹君もお泣きになり、「あはれなことですね。ただこうして拝見するだけでも、別れてしまうのはつらく思われますので、どのような御心で、この幼い若君をみ捨てて、後を絶えてしまわれたのでしょうか」と仰ると、「それは貴女様の姉妹ではなかろうかと思っておりました。こちらにおいでの折も、別人とは思い寄らないで、いつか拝見しようと思っておりました。別人ではございましたが、かえって殊に親しくさせて頂きまして、たいそう嬉しいのですが、もしかして右大将様の奥様ではございませんか」と、密かに申し上げれば、吉野の妹君はお笑いになってしまったのでございました。

「かの方は思慮の深い方であったようですが、大した心もなく拝見するのが恥ずかしい限りです。右大将の奥方とまろを除いては姉妹はございません。右大将の奥方はさような人ではございません。如何なる人違いか怪しいことなので、まろも姉も疑われているのが残念です」と仰る様子も愛嬌があり優雅でもあり、尚言う甲斐のないことですが、一生忘れることの出来ないことでございました。

様々な事が順調で、すばらしい事々があり、年が改まったのでございました。

百七十四 女の身の上

皇太子がおられないので、女東宮(女一宮)が位に就いていたのですが、体調が好ましくないのを理由に、「位を退きたい」と思し召しになったので、正月になり五十日ほどで、尚侍(ナイシノカミ)が帝との間に儲けた若宮が東宮(皇太子)の位にお就きになり、女一宮は院に移って女院と申し上げるようになられたのでございました。

右大将は、尚侍の君の女一宮に対する思いが一方ならないのに事寄せて、たいそう親しく女一宮に仕えなさったので、院の上もたいへんお喜びになられたのでございました。尚侍(ナイシノカミ)の産んだ若君が東宮に即位なさったので、尚侍は女御(妃)の位に就かれたのでございました。

やがて四月に后として中宮になられたのでございました。儀式・様子は世の常を越えていたのでございます。日頃から期待していた立后のことが待ち遠しかったので、誰もが満足なさっているのでございました。

宮の大納言(元権中納言)は、右大将のご好意により中宮大夫の位に就かれたのでございますが、昔尚侍(その時は兄君が女装していた)の部屋に入り和歌を交わして部屋から出されてしまったのを思い出して、物のあはれをしみじみとお感じになられたのでございました。今の尚侍が宇治の橋姫とは思いもよらないのが哀れでございました。


百七十五 宇治の橋姫が気になる権中納言

権中納言と吉野の妹君とで育てている若君は、今はよく喋って走り遊んでいるのですが、若君の母である宇治の橋姫のことがどうしても想い出されて、「この女君は吉野の宮の姫君なので、元中納言のことを何か知っているかも知れない」と思うと、折々に顔色をうかがって聞いて見るのですが、はっきりしないので、「今の右大将の君はいつ頃から吉野に伺っておられたのですか」と問うと、「多分中納言とお聞きしている時から、時々こられていたとお聞きしております」とお答えになるのでございました。

「右大将の君は宮の姉君とはいつ頃からご一緒になられたのか」と細かにお聞きになると、「はっきりしたことは記憶にありませんが、一昨年の頃からでしょうか」と言い紛らわしてしまうのを残念に思うのでございました。

「まろも今までたいそう物思いに沈んで、果てには病にもなり、命も絶えてしまうほどでしたが、思いもかけずお見初め申し上げて、やっとこの世に生きる希望が湧いて来ました。隔てなく限りないほど思い申し上げております。ですが、知っているに違いないことを心に隔てを設けてしまうのは、たいそう残念に思います。知っていることを一つも隠さなければ、隔て事もしないで、知っているままに仰って下さるはずでしょう」と恨みごとをいわれるのでございました。

宮の妹君は、微笑まれて、「隔て申し上げるとは何事でございましょうか。貴方のお心こそ隔てがあって、ありのままに仰っていないのでは。貴方のお心を汲んで、どう申し上げたらよいのでしょうか」と述べるのも道理ではあるので、権中納言は笑って、「隔てているとは思いませんが、仰りにくいことはあるはずです。取り上げずとも、そのことに関してほのぼのと思えることがあれば仰って下さい。まろもそれに対して初めより物事を申しましょう」と述べられるのでございました。

宮の妹君は、「御心の中にあることで、言い出しにくいことを、ましてほのぼのとどうして言えるでしょうか。御心をかえて私の気持ちにもお察し下さいませ」といって笑うのも、たいそう好ましい人柄であるので、さすがに契る甲斐があったと権中納言は思うのでございました。好ましくて、「こんな人でなければ、いかにわびしいことか」とも思われたのでございました。

宮の妹君には、はっきりといいきかせる人はないのですが、「ほのかに心得る事はあるだろう」と思われますが、「何とも奇妙で変な事を申し上げると安心出来ないことになるだろう」などと思い定めて仰らないのを、権大納言は「ただ残念で恨めしい」と思って、さいさいお聞きになるのですが、宮の妹君は、「ただ事情があるのだとお思い下さい。事実を知っても、絶えた野中の清水は汲むことは出来ないゆえ、御心の内が苦しくなり、人の世に漏れたりすればよくはありません」と思い、決して言わないもどかしさはどうしようもないのでございました。

行方知らずと思うよりも、「知っているようだが言わないのだ」と思う心のもどかしさは情けないほどだと思われるのでございました。


百七十六 年月過ぎて

すみやかに年月が過ぎ、中宮は第二・第三皇子や内親王をお生みになり、世間も、「このような定めだったのだ」と認め、帝も中宮に先に恋人がいたこともお許しになり、帝の周りの女御たちも我が身の不甲斐なさを責めるしかなかったのでございました。

右大臣家から早くから来ていた女御も、「我は」と思われていたのですが、御子もなくこの様な情勢の成り行きに恥じらって、退出されてしまったのでございました。中宮は昔、「四の君の婿だった頃に、右大臣に明け暮れ恨まれたことや、宇治の橋姫として、四の君への浮気に辛い思いをしたことを思いだし、これも何かの因縁だろうか」と思うにつけ、右大臣家との縁の深さを、あはれに思われるのでございました。

右大将殿も、四の君に男の子が三人出来たのでございました。左大臣家に密かに育てられた右大将と東宮の女一宮の間の男子も成長して、童殿上(ワラワテンジョウ元服前に宮中に出仕すること)などを務めているのでございました。吉野の姉君にこのようなお目出たがなかったことにつけ、この若君を御子(ミコ)になさり、大切に育てておられるのでございました。

女院(ニョイン元東宮の女一宮が父君のあとを継いで院になった)に、若君が殿上(テンジョウ)して参られるので、昔の宣旨(セジ東宮の女官)などが愛しく奉るのでございました。中宮も東宮のお世話をしており、まして右大将の御心は尋常ではなかったのでございます。

若君が院に参ると、女院は御簾(ミス)の中にお入れになり、たいそう愛しくなさるのでございました。女院も引っ込み思案な御気性ではあるのではございますが、ご心中の子を思う愛しさは、うち明けられないままに悲しく、若君の顔をご覧になっているのでございました。


宮の大納言も、吉野の妹君に姫君二人・若君と生まれ、乙姫君(妹君)は右大将の奥方が特にご希望されて、この若君と左右に置いて可愛がっておられるのでございました。

百七十七 ひそかな再開

大納言と宇治の橋姫(今の中宮)の間に出来た若君も、今は成長なさり殿上(テンジョウ)に上って、右大将殿の若君と伴にしておられるのですが、中宮はごらんになるにもたいそう愛しく、東宮になられた宮や弟の二人の宮の事にも劣ることはなかったのでございます。若君を見るたびに、あはれで悲しく思われるのですが、春の長閑な昼頃に、二の宮と若君が遊びに宮中へやって来られたのでございます。二人ともよく似ており、若君は少し匂うような愛嬌があり、このうえなく見えるのがすばらしく、しみじみやるせない心を抑えがたく思われるのでございました。

近くに人が余りいないので、安心して簾(スダレ)の中に呼び入れると、宮はお入りになるのでございますが、若君は遠慮されているので、「いらっしゃい、苦しくはありませんよ」と仰せになると、隅にきちんと座り直して、簾の内側にお入りになると、余りに可愛らしいので、今は最後と乳母(メノト)に抱きかかえさせて、忍び出たあの夜のことが思い出されるので、それが今であるかのように切ない思いになるのでございました。

悲しみが深く、「怪しく思われないだろうか」とわざとお隠しになるのですが、涙がこぼれて耐えがたいのを拭い隠して、「あなたの母上と言われている方をご存じですか。大納言はどのように言っておられますか」とお聞きになると、次第に物事が分かって来て、「母上はどうされたんだろう」と気がかりで、大納言や乳母(メノト)も日々語って慕っているが、母上のことを大変若くて美しい人のように言ってるけれども、「もしかしたらこの方が母上かもしれない」と思いあたると、普段は隠している母への思慕の念がこみ上げてくるのでございました。

「この方が母上だろうか。ゆくへ知らずで人に間違えられるような人ではいらっしゃらぬ」とお考えつづけて物もおっしゃらないので、中宮はじっと見守って、袖をお顔に当ててお泣きになると、この若君も涙のこぼれ出る様子なのが、たいそう可愛らしいので、今少し近寄って髪などをかき撫でて、「あなたの母上は、私としかるべき縁のある人で、あなたのことを忘れがたく恋しがっておられます。大納言などは、その方はもはやこの世にない人だと思っているかも知れません。あなたのお心一つで、母上は生きておられるものとお思いになって、この辺りにいつもおいでなさい。こっそりお見せ申しましょう」

このように話されると、寂しい表情で座っているのが、まことに愛しく離れがたい思いでおられるのでございました。

二の宮が走って来られて、「さあ」といって若君を引き連れてゆかれたので、不本意で悲しく、端近く涙をこぼして見送っておられるのでございました。

若君は十一才。髪はすねのあたりまでゆらゆらとかかり、愛らしげに他の宮たちに礼を尽くしている様子など誠にいじらしいので、

同じ巣に 帰るとならば 田鶴(タヅ)の子の

 などて雲井の よそになりけん

(鶴はみな同じ母親の巣に帰るというが、それならあの若君はどうして内裏以外の人となってしまったのか。)

と口ずさんで、たいそうお泣きになったのでございました。


百七十八 心広き帝

帝は偶然中宮のもとにこられて、そっと物陰に姿を隠しておられたのですが、この若君と向かい合って、中宮が泣きつつお話になっているのを、「変だ」とお思いになり、音をたてずに聞いておられると、事のなりゆきを悟られたのでございました。「そうなのだ。事情(わけ)があるのだろうと思っていた。この若君は中宮のお子なのだ。大納言が奇妙なことに、母のことは誰ともいわず、朝な夕なに涙にひたりつつ、この子をそばから離さず愛育していた、と聞いていたのは本当であった。中宮(当時東宮の女一宮の養育係であった)が病気だといいたてて、東宮へも参上せず、半年ばかりひきこもっていたのも、出産というためだったのだ」とお思いになると、この若君の年令を考えると十分に納得出来るのでございます。長年中宮の最初の男が誰とも分からない不審の念を晴らすことが出来たのは幸運なことであったのでございました。

(帝が)「父左大臣が、その男を誰であると知りながら結婚させなかったのは、身分違いな男かと失望していたのですが、あの大納言なら人柄や容貌・姿を初め、抜群に優れた男だから、愛し合ってはならぬ程の二人ではなかったはずだが、父君としては、この美貌の娘を結婚させるのなら、妃の位にまでと誇り高く考えていたのであろう。また大納言の性格がむやみに女好みで信頼できず、右大臣家にも通う女性がいることなどを、深く配慮して、結婚を許さなかったのであろう。どんな男も女もやるせない思いでいる時は必ずあるものだ」とあはれにお思いなっているのでございました。

やはり様子を知りたいので、今来たようにお会いになると、中宮が涙をぬぐって起き上がられた姿は、若君が宮たちと遊んでいる様子と似ているので、今まで見極めることが出来なかったことを苦笑なさっているようでございました。

(帝が)「右大将や大納言などは、今は年上の上達部(カンダチメ)になってしまい、内裏(宮中)には美貌の若人がいなくなった気がするが、あなた(中宮)の知り合いが増えて、かえって世の末に優れた人が多くなって来た気がする。中でもその若君や右大将の奥方の四の君の子太郎君などは、今から様子が格別に良い。それにしても、右大将家の大若君や今の若君の母が誰とも知られてないのが気になるが、右大将の方は女院(元東宮の女一宮)がお産みになったのだと世間がいっているようだ」

(帝が)「その若君の方は明らかに顔かたちや気配が気高く優美であり、それに違いない気性も備えている。それにしては余り噂されない。いや私に教えてくれる人がいないのだ」と微笑んでいるのでございます。(中宮が)「もしや、わたしの先ほどの様子を変だとご覧になったのかしら」と思われるのが、中宮にとってはつらいことであったのでございました。

「さあ、あの若君のことは知りません。右大将家の若君のことについては女院様にとって軽々しいことをおっしゃいますわ」と中宮がおっしゃると、帝が「あなたも知っておられることと人々が噂しているようですよ。実際あなたが案ずるほど不都合なことでもないでしょう。ではこのことはご存じないのですね。ではもう一つの方(若君のこと)は知っておられますか?そちらのことをもっと知りたいのです」と仰ると、申し上げようもなく、顔を赤くしてそむけた中宮の愛らしさは類いがないのでございました。

過去に失敗や過失があっても、その姿をみたら怒りも消え失せてしまいそうな美しいご様子でした。まして、年月がたっても中宮にばかり御子(ミコ)が生まれるのです。帝の心はいよいよ愛情深くなられたようでした。何に失望なさることがあるでしょう。この夜も抱き合ってお眠りになったのでございました。

百七十九 幼き人の知恵

(大納言の)若君は、先刻何となくしんみりとした気持で別れたので、そっと乳母(メノト)に会い、「まろの母と思われる人とお会いした。殿には申し上げてはなりませんと言われたので話すまい」といって、涙を目に浮かべておられるので、乳母はたいそう驚いて、「どうしてまあ、どこにおられましたか。どのようにしてお知りになったのですか。ご容貌やご様子はいかがでございましたか」と聞くので、

「ご容貌やご様子は、とても若くて愛らしく、内の母上よりも何となく美しく、気高い方だった。はっきりと名前をなのることはしなかったけれど、ただあなたの母はこの世にいると思って下さいと言って、たいそう泣いておられた」といいながら、思い込んでおられるご様子で、尚どこにいたかは話さないので、

「父君は、あれほど寝ても醒めても恋悲しんでおられました。本当の母君はこの世におられますよと申し上げたいのですが、どうしてその様にお隠しになるのですか。どこで本当の母君とお会いになったのですか」と尋ねると、

「殿には申し上げてはなりませんと仰った。今度またお逢いして、殿にも申し上げなさいと言われた時に話そう。申し上げてはならぬと乳母に口封じをなさるのも、幼き人とも思えずく美しく賢くふるまわれるのが、見上げたものだと思われるのでございました。


百八十 幸福な結末

そういえば、右大将殿は麗景殿の人(麗景殿の女御の妹)を行く手に捨ててしまわれるのも、気の毒なお人柄であったので、しかるべき時に忍んでお逢いしておられたのですが、たいそう可愛い姫君をお生みになったのでございました。四の君のお生みになった姫君-実は大納言の子-は宮中に出仕していたので、女の子をお抱えではなかったので、生まれた姫君の将来も案じて、「まろの二条殿へお迎えしたい」とお考えだったのですが、麗景殿の女御が、「帝に仕えながら姫君さへも設けることが出来なかった」と長年嘆いておられるのでございました。

伴に暮らす妹の身に、このように可愛い姫君がお生まれになったので、たいそう愛しくされて、手放そうとなされないので、右大将殿も、「それも仕方ない」と思われて、麗景殿の女御にもご後見なさったので、帝の中宮へのご寵愛が深い中で、女御もいたたまれない宮使いをなさっていたのですが、右大将殿が好意を寄せて、様々にご支援をなさるうちに、様々な不具合も目立たなくなってしまったのでございます。

年月はさらに過ぎ去って、関白左大臣(右大将の父君)もご出家なさり、右大臣が太政大臣になり、右大将殿が左大臣になり関白を兼任なさることになったのでございます。大納言(宇治の橋姫の夫)は内大臣になり右大将を兼任なさることになりました。二人の皇子もそれぞれ元服なされ、中将・小将と申し上げているのでございました。

帝も退位されて、東宮が帝位におつきになり、二の宮が東宮におつきになるのでございました。関白様の女御の四の君の生んだ大姫君が女御として宮中に出仕して藤壺に入られました。それに続き麗景殿でお生まれの姫君が、東宮の女御として参上なさいました。

それぞれに目出度く振る舞われる中で、内大臣(前の大納言)は、年月が過ぎ去り、御代の変わるにつけても、見通すことが出来なくて終わった宇治での出来事で、川浪が袖にかかるが如くに、涙で濡れぬ時とてなく、三位(サンミ)の中将になった形見の若君が成長なさるにつれ、際だったお姿や顔立ち、学問の深さを知るにつけ、「どんな気持でこの子を置いたまま行方をくらましてしまったのか」と思うと、つらくて恋しくて、訳もない思いで、深い悲しみにひたっていたと言われているのでございました。(完)


昭和34年4月10日のご成婚



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