春の巻 第七章 月夜の恋

四十六 宮の心づかい

はや二三日過ぎてしまいました。宮は中納言の才能の限りないのを称賛なさり、仏前の勤めも忘れがちでございました。

中納言が日本(ヒノモト)で絶えてしまった琴に関心を持っているので、宮は深夜の月の澄んでいる時にかき鳴らしになったのでございます。心に染みる妙なる響きは類いがないほどでございます。

宮は少しばかりお弾きになり置かれたので、中納言はそれを取ってお弾きになりましたが、全く同じ調べをお弾きになり、天才的な才能で怖ろしい程でございます。

宮は「残りの音(ネ)は先日申し上げた娘たちに教えており、間違いなく習得していると思いますが、吉野の峰の山風に耳が慣れてしまって聞き違いがあるかも知れませんが。されど、わざわざ訪ねて下さった喜びに是非ともお聞かせしたいと思っています」といって姫君のおられる方に渡って行かれたのでございます。

宮は「かかる人が訪ねてこられて、数日おいでだが、こちらで物などを申し上げてみなさい。普通の人にはみえないお姿です。急なことで戸惑いがあるかも知れませんが、怪しい人ではありません」といって辺りを整えてお迎えになるのでございました。

暁(アカツキ)近く出る月の、霧がかかり何ともいえず風情がある折りに、宮からご案内があったので、中納言は入っていくと、得も言われないようなほのかな香(コウ)の中で、眩(マバユ)い様においでになれば、端の方で眺めていた姫君は、はにかんで奥に入ろうとするので、宮は「ただ申し上げた通りに。この様に世間から離れた日々を送っているので、世の常の様にもてなすのは難しいでしょう。しかし、決して怪しい方ではありません」と言って置いて、ご自身は向こうへいってしまわれたのでございました。


四十七 松風の歌

この宮殿は少し奥に入り、小さな寝殿造で、質素を旨としていて、見所もあるのでございます。心を留めて趣味を生かした宮殿であることが分かるのでございます。内も外もひっそりとして人気もしないで、池の水に月ばかりが照り輝いているのでございます。「このようなところに、いつも眺めておられる姫君たちの御心はどうなのか」と憶測すると、寂しくつらいのではないかと思われますが、「和風なところはなく、唐国(カラクニ)の心地を尽くして、深いもののあはれなどは知られないのではないか」などと推測するのも気になるのですが、人声もしないので、

吉野山 憂き世背(ソム)きに こしかども

  言(コト)問いかかる 音だにもせず


(吉野山に憂き世を逃れてやって来ましたが、言葉を問いかける人もいないのが寂しい限りです。)

情がなく茫然とした様子で、涙を流される情景は、実に親しみやすく趣があると思えるのでございます。都では例のないほど思い込んでいる人がいるのですが、まして普通の男でさえ見慣れてない姫君たちがどうしようもないのは、おいたわしく思われますが、ご返事を申し上げる侍女もいないので、姉宮がほってはおけないので、座を内に向けて次のように詠まれたのでございます。

絶えず吹く 峰の松風 我ならで

  如何にといはむ 人影もなし

(絶えず風が吹いている峰の松は私ではないので、どうしたのかと聞いてくれる人もいません。)

ほのかな気配がたいそう上品で、こちらが気後れするほど趣がございます。都でもこれほどの雰囲気を持つ人は珍しいと思われます。それから一首つづきますが、姉妹の「どちらであろうか」と思うのですが、

おほかたに 松の末吹く 風の音(ネ)を

  如何にと問ふも 静心なし

(大体において、松のこずえに吹く風の様に、男性から言葉をかけられても、果たして私に想いを懸けてくれたのかどうか、問うのにも平静ではおられません。)

人から想われる情景が訪れた様子を、ただあはれに心より問いかける由(ヨシ)をたいそう感慨深く仰るので、その真実な気配や心づかいを見て取ると、中納言は、「都の宮の宰相は、このような女性がおられることを、まだお聞きになっていない。もし聞いたらどれだけ驚き熱中するだろうか」と思い浮かべて我が身を可笑しく思うのでございました。

四十八 親しき語らい

月は雲もなく冴え渡り、虫の音もあちこちから聞こえ、水の流れ、風の音、鹿の音(ネ)なども一つに聞こえて、趣を添え、涙をさそうきっかけになる場所柄であり、人のお住まいであるのでございました。

和歌を詠まれた後に、姉君が「このように端の御簾(ミス)の外にいますと、未だ慣れないことなどで、恥ずかしく恐縮してしまいます。疎ましく思わないでください」といって、部屋の奥にお入りになったのでございます。

中納言が「姫君様、世に慣れた態度は取るつもりはありません。気になさらないで下さい。申し訳ないことですが、今一人血を分けた者がいるとお考えて下されば結構なのですが」と、たいそうゆったりと親しみを込めて、おなだめ申し上げるのですが、夢をみているように思い惑われるのも仕方がないことなのでございました。

そうすると、妹君も姉君にしたがって部屋の奥にお入りになったのでございます。侍女たちは落ち着かず見ている者もいましたが、「このように珍しく麗しい方がおいでになる」と聞いて、心をときめかせていたのですが、どうしようもないのでございました。

中納言は「ご安心下さい。この世に生きている限りは、なんとしても愛情を尽くし、お目にとまりたいものだと思っていますので、余り気になさると違和感がありますが、ただ真実、疎ましく思っていませんのでご心配はありません。」などと申し上げている内に、徐々に姉君のお心も慰められる気持ちになられたようでございます。

ただ妹君の方は、遠慮なさり(尼のように)頭から衣をかぶって隠れておられたので、姉君が几帳で周りを覆ってその中にお入れなさったのでございます。

姉君もつづいて几帳の中にお入りなさる気配なので、中納言は普通の男がするように、引き留めようとなさったのですが、少しもいやらしい態度ではなかったので、その情けをお分かりになったようでございました。

姫君たちは、このように男の人を見知らぬものですから、理由(ワケ)もなく恥ずかしく、正体が分からず、不安に思われるのでございました。

四十九 美しい二人

夜が明けて行くと、姉君は「なんとはなく恥ずかしい」とお思いになられるのでございました。

白き単衣襲(カサネ)で柔らかな姿はたいそう優雅で、絵から抜け出したようで、頭(カシラ)や髪のかかりなど平凡ではなく、自然に垂れた髪は袿(ウチキ)よりも多く余っておられるのでございました。奥ゆかしく隠すようにしておられた横顔は、色白で可愛らしく、気品があり清らかでございました。

「唐土(モロコシ)の人らしく親しみにくく、こちらの人には似てないのでは」と案じておられましたが、昨夜の様に奥ゆかしく、繊細な感情が「たいそう上品で見飽きぬご様子」と、趣があり美しく、いよいよ将来が楽しみであると思われるのでございました。中納言の姿はいっそうで、早朝の姿を、「更に見ると、たいそう素晴らしく」と拝見なさるのですが、明るくなると出ていかれてしまったのでございます。

中納言は「美しい人であった」と思い出されて、文をお書きになったのでございます。

今のまも おぼつかなきを 立ち帰り

  折りても見ばや 白菊の花


(今も夢のようで、帰りましたら生けて見たくなります。貴女の様な白菊の花を・・・)

世の常である後朝(キヌギヌ)の文であるので、侍女たちはそのように受け取って、ご返事をお奨め申し上げるのですが、姫君は消極的でございました。

中納言の気配が親しみがあり、趣きもよかったので、そこはかとなく語り合われたのですが、後になってにわかに恥ずかしくなり、ご返事をなさらなかったので、侍女たちはがっかりしましたが、姉君は「必ずしもご返事を申し上げるものでも」といって遠慮なさったのでございましたした。

中納言は、日が暮れたら、いつもの部屋にお渡りになり、月を眺めつつ語り合い、琴の音を合わせつつ夜を明かし、すっかり心を奪われて、帰京する気持ちも忘れかけていたのでございます。

五十 別れの松風

あっという間に、何日も過ぎてしまったのでございました。

「お二人は、このように隔てないご様子で」と誰かが申し上げましたが、宮は「どうしたことだ」などと驚きにもならない。「よろしい、お話なさればよい」とだけ申し上げるのでございました。

中納言は、何の隔てがあるだろうか、されども身を替えることは出来ないことでもあり、いつまでもこうしていることも出来ないと思われるのでございました。

「殿、母上は行方も分からず心配されているのではないか。右大臣方も恨み嘆いておられるだろう。自らのお心も一重にそのように思っておられるだろう」と、様々に思いやられることが多くあるのでございました。

また、吉野の宮殿にもいつまでも籠もることが出来ないので、宮には麻のお衣、法服、宿直の品など、宮が噂で耳にしておられる様な物ばかりを粗略な物という口上で献上なさったのでございます。

上下を問わずいらっしゃる人、姫君にも御料(貴人の日用品)、紅の掻練(カイネリ練って柔らかくした絹地)の袿(ウチキ内側に着る衣装)など、世になき絹、綾(アヤ模様のある織物)などを多く献上され、扇など普通では手に入らないようなもの、その他にも献上なさりましたが、余りに多いので、姫君が「この様な贅沢は考えることを捨てており、不本意なのですが」などと仰るのですが、中納言の人柄がたいそう気品があるので、こちらが恥ずかしくなりそうなので、心のままに返すことが出来ないのでございました。

宮は「こだわりになっている姫君のことはお任せ出来ましたので、心の荷が下りました。これより、深く思うことに力を入れていきたいと思っております」という旨をご返事なさるのでございました。

中納言も今更めいたことは申し上げませんでしたが、「このお住まいもいずれ都へお移ししようと思っております」と申し上げると、「それも、そのうちに。お急ぎになると、貴方にとっても世間の噂が気になるでしょう。このままでも、お捨てにならないでお世話下されば、不安な思いは解消できますよ」などと約束を確かめて、宮は贈り物として、唐土(モロコシ)から持ち帰った、この世にない薬をあらん限りお贈りになったのでございました。

姫君には帰途につく際に、限りない志を約束して置いても、尚満足できないので、

静心 あらしに身をぞ 砕かまし

  聞きならいぬる 峰の松風


(聞き慣れた峰の松風のような貴方の声を聞かなくなったら、嵐に身を砕くほど嘆き沈むことでしょう。)

姉君も、中納言の目も彩(アヤ)な姿や親しさを感じることが出来なくなれば、今よりも寂しさがまさる思いなので、

年をへて 聞きならいぬる 松風に

  心をさへぞ 添えて吹くべき


この様に中納言は、自分だけではなく、人にも見聞きさせたいような、美しいご様子やご気配が、まだまだ十分満足していない心地で、帰途につかれたのでございました。





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