春の巻 第五章 中納言の絶望

三十三 秘密の逢瀬

人目もはばかることを忘れたごとくに、お逢いされることを懇願されるので、左衛門は宰相ノ中将の情熱にほだされて、中納言の内裏の例の宿直(トノイ)のある折々に、夢中で導き入れなさるのですが、女君は涙をこぼすのでございました。

「少しでも人に知られたらどうしよう」と思いながらも、ほのかなる逢瀬(オオセ)の折々、男が正気を失うほどに熱烈になるのも、若々しく情が深くこもっていると、たび重なって来ると、分かってこらたようでございました。

中納言の立派で優れながら、よそよそしく、人目のある間は愛情深げにゆったりして格好良くしているのを見るにつけても、「これほどまで烈しく、思い詰めている人も愛情一筋なのだ」と思いながらも、「人に分かってしまったら」と気になり、何となく恥ずかしい思いがするのに、宰相ノ君の人知れぬ愛情が、理解出来なくもない気になっていくのが、自分でも「つらいことよ」と思えるのでございました。

三十四 四の君の妊娠

このように物思いに沈み、晴れ晴れしない気分で暮らすうちに、特に自覚はなくても、妊娠三、四ヶ月の体になってくると、侍女たちがそれと気づき申し上げるのでございます。

父右大臣が、「この数ヶ月、さしてどこが悪いというわけでもなくて、この様に具合いが悪いのは、もしかして、妊娠ではあるまいか」とおたずねなさると、確かめた人でないとそうとは申し上げられないので、お湯などを差し上げる侍女たちがよく見とどけて、「そうでございました」とお答え申し上げると、たいそうお喜びになって、顔一杯に微笑みをお浮かべになるのでございました。

「今まで安産の祈祷もしなかった」とお急ぎになり、「中納言の志が脇目もせず親切であった。外見の良い人は、女好きで浮気をしても咎(トガ)めにくいが、中納言はいささかの浮気もなく、四の君に濃やかに尽くしてくれた。世の見本として差し出しても良いほどだ。まして中納言の顔つきに似ている子が出来れば、我が家の誉れになるだろう」と涙ぐみつついいつづけて、たいそう笑顔になり四の君のところへゆかれたのでございます。

四の君は体調が悪く寝ておられましたが、殿の御気配を感じると起き上がり、殿は「たいへん嬉しい」とお思いになって、四の君に寄り添いて、「どうですか嬉しいご気分は、今まで聞かなかったが、安産のご祈祷をさせるべきであった」と泣きに泣きなさるのでございました。

四の君は、変だ、今までも体調が良くなかったが、宰相ノ中将との後は、いっそう心細く感じていたが、本当に妊娠していれば、中納言はどう思うだろう。今までと同じ様に接してくれるだろうかと思うと、心配になり冷や汗が出て来るのでございました。

殿は困惑している四の君を見て、「あきれた恥ずかしがりだね」といって「たいへん嬉しい」と思われる様子は限りがございませんでした。

様々なお菓子を何やかやと気をつかいなさる。母上に「はやく行って見てきなさい」と申し上げると、「恥ずかしがるではないですか、余りあからさまに申し上げなくても」といわれると、「そこもとは大将にとついだ娘や、宮の女御になった者ばかりを心配しているのだな。四の君には疎いのであろう。この様に妊娠するまで知らぬ母親がいるものか。長年大切にしてきた甲斐があって、胸がすっきりしたよ」といって乳母(メノト)たちを呼んだのでございました。

「中納言様は必ずしもお分かりではあるまい。今日はお日柄もよい。夜お帰りになったらほのめかし申し上げよ」などと仰っているうちに中納言はお帰りになった。「それみよ、夜更かしもなさらぬ。中納言様が浮ついていたら、どんなに胸が痛むだろう。女は妃になっても何になろう。主人に大切にされることだけが目出度いのである。上手いこと中納言を婿にと思いついたことよ」と自慢し、得意げに振る舞っておられるのも、事実を考えれば気の毒なようであるのでございました。

三十五 中納言の驚き

中納言が食事を召し上がる時、中務(ナカツカサ)の乳母(メノト)がお仕えして、右大臣が大いに喜んで、「早く申し上げよ」と仰っているので、さりげなく申し上げると、中納言の胸が痛み「なんとしたことだ」と思われて、顔色がさっと赤くなるのを、乳母は「恥ずかしいと思われなさる」と思って「なんといおうと殿はお若い」と面白く、かわいく拝見するのでございました。

女君は心細く寝具をかぶっておいでになったのですが、中納言はいつもと変わらず寝床に入って、落ち着いて申し上げたのございます。「世間並みでない身を、当たり前のように振る舞ってきたのですが、貴女を大切にしているので、しみじみと語り合い仲良くして、気遣いをかけないようにしてきたのです。特に変わった様子もなければ、母上も世間から非難されることもないでしょう。父上も決してお見捨てにならず、いつも深い愛情を注いで下さるでしょう。その父上に苦労をかけてはいけないと思って参りました。ここで吾(マロ)が早まったことをすれば、父母は深い悲しみに包まれることになるでしょう。」とお話になり、まして世を捨てることなどは考えることも出来ないのでございました。

「世間にいては、ついには話にならぬ不幸が起こる身が情けない。世間の評判では、なんら不足のない身なのに、しかし男女のことには何と疎いのだろうと思う人もいるだろう。本当に情けないことである。こうして夫婦としてあるのに、未だに肉体関係がないのはおかしいと思う人もあるだろう。」「かくの如き憂き身が恥ずかしい。この様な身では、世間に長くいることも出来ないので、一人でいたいと思っていたが、それも出来なかったのが悔しく残念である」とほとんど眠れないで明けてしまったのですが、世の中から姿を消すことは出来ないと思うのでございました。

「一体誰だろう。この様なことが起こることを知りながら、この屋敷に出入りしているのは・・・。なんと馬鹿げた奴かなと見ているであろう」など、つくづく思っているうちに明け方が来てしまったのでございました。

三十六 心やましき二人

朝、互いに一緒に起き上がらず、女君を(中納言が)さそって起き上がらせようと致しますと、女君はまた布団に顔をうずめようとなさるのでございます。

(中納言が)「どうしたんだですの。このところ、妙に受け入れてくれそうもない気がしておりましたが、曇りない心のままに、無心に貴女にお逢いして参りましたが、世間慣れしないまろのやり方を、どのように貴女が思われているかを思案して参りました。貴女はいかがすることをお望みなのでしょうか。まろより勝った愛情の持ち主が、どこかにおられるのでしょうか。貴女以外には愛情を捧げず、お側にいることを最良のやり方と信じてきたまろは一体どうしたらよいのでしょうか」と静かに、こころめたく、耐え難いところを仄めかすように仰るのでございました。

中納言自身、「誰を恨んでいいものやら」と心中妙な気もするのは、多分気も動転するほどの嫉妬心はなかったのではないのでございましょう。

(中納言が)匂うような美しさと、にこやかな様子で臥しておられるのをご覧になった女君は、また泣いておられるので、慰めの言葉もなく「お側に誰かいなさい」といって、お手洗いの水で手を浄めて、読経(ドキョウ)をされるのですが、心の内は複雑で、余り深刻に考える程ではないのですが、「人から馬鹿とも世間知らずとも様々に思われることが、たいそう恥ずかしい。結局早くから怠ることなく対処していれば、この様な間違いはなかった」などと思い詰めてしまう心地がするのでございました。

お経をつくづく読んでいれば、なんとなく心が澄んで、声を強めて読むとさらに尊さが増すのですが、聞いて臥している女君は、読経がなんとなく悲しく聞こえ、顔の隠し所がなくて悲しんでおられるのを一体誰が知っていたのでございましょうか。

三十七 物思う中納言

女君の嬉しい妊娠の話が左大臣の大殿への耳にも届くようになったのですが、殿は「怪しくおかしいことだ。中納言は世に並ぶ者がないほどの勢いだから、変わった身を意識しても、さほど思い嘆くことはないはずだが、この頃世を嘆いたり物思いに沈んだりするのも、この様な裏の事情があったのか」と思し召しになるのですが、「なにがあったのか」と申し上げるのも立派に成長した中納言にははばかれて、申し上げなさらなかったのでございます。

人目には、嬉しいような顔をされるが、中納言にとっては殿の思惑がかえって心苦しく思われるのでございました。宮中に出仕しても「まろをばかばかしく、おかしいと思っている人がいるに違いない」と思い、人を雲の向こうに追いやって、この世はしょせん仮の宿りであるという御仏の教えをいだかれていたのでございます。

今までは、女君とも深い契りを交わし、起き臥しも懐かしく一つ心で、「世の常でない身のまろと一緒になって下さったのも申し訳なく、他の女の色香に迷っているなどど聞かれることはすまい」と深く最愛の人とお思い申し上げて来たのですが、こういうことが起こってからは、「肉体的な関係がなかったのは変だとお分かりになったろう」と思うと恥ずかしく、心に隔たりが出来てしまったと思われたのでございました。

無理に今までと同じにするのは愚かなのですが、以前のように仲良く出来ないのも「恥ずかしく悲しい」と思われるのですが、打ち解けてもお互いを見合わせることも出来ず、「中の疎くも」というようになってしまうのですが、中納言は「そうだから真(マコト)の契りこそ心に入れることが出来るのだ」と悟って、決して恨んだり、自らを慰めたりしないで、女君の気色も遠ざけて、仏道に邁進して心を澄ます風情が、しだいに濃くなって行くのでございました。

三十八 見えぬ山路

(中納言は)読経にのみ心を入れて明け暮らしておいでになったのでございます。左大臣家(実家)や内裏(ダイリ)への宿直(トノイ)へ行くことが増え、侍女たちは「女君の妊娠で、もっと多く女君に添ってもよいのに、どうもおかしい」と思い奉るのでございました。

女君の父君も「おかしい、中納言の仏道修行といえ、夜戻ることが少なくなった。一体どなっているのか」とお嘆きになるのを聞いた女君は、身の置き所もなくわびしく、「何とかして消え失せ、この身をなくしたい」とのみお思いになるなが、たいそう悲しゅうございました。

宰相ノ君は、左衛門が道案内なので、女君の様子などを詳しく聞き、愛しい人と契った日を思いおこし、「世の常識や人目を無視しても、なんとか女君を連れ出したい」といらだちなさいますが、現実的には困難な話で、思い乱れることの多い日々を過ごしておいでになられたのでございます。

中納言の君は、宰相ノ君が普段のようではなく、たいそう物思いにふけっている様子を見て、「以前から四の君(女君)に大変熱を上げていたことなどから、女君を妊娠させたのはこの人ではないか。他に思い当たる人はいそうにない。そうなら、まろを下手に伺っているかも知れない。恥ずかしくも悔しいことだ」と思われるのですが、詳しく知っていることではないので、それ以上は想像の域を出ないのでございました。

「この憂き世の中で、せめて父母が元気でいて欲しいと思っていても、この様に心配の種をつくってしまった」と千々に心が乱れてしまうのでございました。中納言の胸のなかには、俗世の煩いを越えた山路をたずねる心がいよいよ強くなって来ていたのでございます。





目次のページ