春の巻 第四章 春の夜の過失

二十四 兄妹の仲

中納言17才の春でございました。

その年も改まり一日ごろ霞の空は春景色に見えますが、旧年からの雪は散っており、風雅な景色の中を大殿が宣耀殿に伺うと中納言も来ていたのでございます。

里の住まいは昔は奥方の争いの名残(ナゴリ)があり、疎ましく思われていましたが、大殿が「この二カ所の他には住むところもない。自分も歳なので、この先どうなるか分からないが、世間に知られてないことは、他人に相談するよりは互いに相談し合ってお過ごしなさい」と仰せになったのでございます。

おのおの成長して簾(スダレ)の中には入っていましたが、姫君は気恥ずかしく、里の住まいには簾の隔てはまだ残っていますが、内裏に参れば宮への上り下りに中納言がお世話をするので、世の中のことも分かるようになり、だんだん慣れていくことであろう。現在は几帳程の隔てで昔のことをなつかしく申し上げるのでございました。

世にないようなおかしな様子があるのですが、自分の事は側に置いておき、中納言が「この美しい尚侍(ナイシノカミ)をそのままの姿で人に見せることができたら」と不満げに悲しく思われるのでございました。

尚侍も中納言の姿を見る度ごとに胸が潰れるような気がするのでございました。互いに相手の身の上を案じながら、信頼があり、思い遣りも深いものがあったのでございます。

二十五 父君の感嘆

尚侍(姫君)のお部屋での衣装は、紅梅の趣向をこらしたお召し物で、み几帳は三重(ミエ)にされており、侍女などは梅の五重(イツエ)を単衣(ヒトエ)の上に重ね、紅梅の唐衣(カラギヌ)または萌黄の重ね着で、世になく贅を尽くして春めいているのでございました。数ゝの者が仕えておられ、中納言は紫の指貫(袴)の紅の色深く、艶がこぼれるばかりで、花やいだ辺りにこぼれる愛嬌は、なつかしくて見たくなること類いないのでございました。例の胸の安らぐ時のない大殿の御心の内ではありますが、つい微笑まれて物思いも忘れる心地がするのでございました。

み几帳を内をご覧になると、尚侍は紅梅のお召し物の上に濃い衣を重ね着されて、桜の織物の上着を召して、紅梅重ねの扇を持ってご容貌をまぎらわせておられるのでございました。尚侍のご容貌は中納言の薫るような顔を生き写したようであり、見分けが出来ないほど似ておられ、中納言の方が少し上品であでやかなのでございましょうか。

御髪(ミグシ)はつややかに緩やかにかかり、身長に二尺ばかり余っており、末の紙飾りは白い衣に鮮やかに似合っておられ、まるで絵に書いたようで、大殿は見るごとに「あゝ美しい」と涙ぐむのでございました。容貌が不満足なところがあれば、尼にでもして深き山に籠もらして、新たな段取りはしないだろうが、かくも美しいご容貌であるだけに嬉しくもあり、悲しくもあり、とめどもなく涙がこぼれてくるのでございました。

二十六 物思う宰相中将

日が暮れてたいそう月の明るい晩でございました。

中納言が尚侍に「琴は調子がいいですか。中納言の笛に合わせて如何ですか」と、箏の琴を勧め申し上げて、(尚侍は)中納言に横笛をお渡しになったのでございます。

例のごとく、横笛の澄みのぼる妙なる音色は雲を分けて響き渡り、涙をとどめがたく、掻き合わせる琴の音色も劣らず限りなく素晴らしいのでございました。

辺りを去らないで、宰相ノ中将も聞いておりましたが「笛の音も琴の音も比類なく美しい。この世の物ではない兄妹の才能であるかな。容貌も様子もかくのごとしだ」と申し上げて、そぞろに涙をこぼされるのでございました。

宰相ノ中将は耐えられそうにないので、「真屋(マヤ)のあまり」と漢詩を吟じ、庭の遣水(ヤリミス)゙の反り橋の方に出ると、中納言が気づいて琵琶に取り替えて「押し開いて来ませ」と掻き鳴らし「帷帳(トバリチョウ)なきが口惜し」と歓迎の意を示しましたが、大殿がいかめしい顔つきで隅にお出ましになったので、宰相ノ中将はがっかりして、喜びもさめてしまったのでございました。

殿上人(テンジョウビト)や上達部(カンダチメ)など参りて対面されるのですが、宰相ノ中将はあの時の箏(コト)や琵琶の音色ばかりが耳について、「あれほどの風流人として、世に一人しかいない中納言を見慣れていると、どの様な琴も人の耳に入らないだろう」と思うと、たいそう羨ましくて、人に琴を勧められても、すぐに断ってしまうのでございました。

侍女たちは、中納言と等しい訳ではないけれども、宰相ノ中将こそあらゆる人よりもこよなく優れた人であり「たいへん親しみがあり素敵な方だ」と思われていたのでございます。

二十七 春の世のかいま見

尚侍(ナイシノカミ)が同じ内裏(ダイリ)の中にいます様になってからでございますが、見張っておられた宰相ノ中将は時々かような琴の音をお聞きになるにつけても、「岩うつ浪(ナミ)の」とのみ思(オボ)し召しておられたのでございます。

叶うべき世はなからんと思い悩まれて、霞み渡れる月の景色にも、心のみ空しく憧れることに想い悩まれて、例の「中納言殿に話して慰めよう」とお思いになったのでございます。

こっそりとお出かけになってみると、中納言邸はいつになくひっそりとして、「内裏での宿直(トノイ)に参内なさいました」というのでがっかりしてしまわれたのでございます。

「内裏へ参ろうか」と眺めていると、中納言邸で箏(ソウ)の琴の音(ネ)のほのかに聞こえるので、耳におとまりになり、「あれは中納言の奥方の四の君の琴か」と思われて、「この方は浅からぬ縁で、昔恋したお方だ。しかし、中納言と結ばれて塩焼く煙になってしまった」と思うと、今でも愛しい気持ちで、とても諦めきれなくなり、とにかくそっと近づいてかいま見ると、端の簾を巻き上げて灯火をともして琴を弾いておられるのでございます。自然に姿が見えて、優雅で可愛い様子は、尚侍は想像に過ぎないが、本当に見とれてしまうほど可愛いとご覧になったのでございます。

「四の君は美人で有名であったが、かくの如き優美な方とは知らなかった。本当に可愛い人だ」と思うと、宰相ノ中将の御霊(ミタマ)が四の君の袖の中に入ってしまったような心地がして、とても帰る気にはならなかったのでございました。


二十八 心尽くしの人や

宰相ノ中将は、この世の分別もなくなれば、「さあ、今宵は入ろう」と思うと、夜もふければ人々は寄りふしたり、庭に下りて花影に遊んだりして、四の君の前には誰もいず、琴によりかかるようにして、つくづくと月をお眺めになって、

春の世も 見る我からの 月なれば 
  
 
    心尽くしの 影となりけり


(春の夜の月も私の心で眺めれば、心の尽きてしまった様な虚しい影に見えてしまうことだ。)

と独り言を仰るのでございました。

宰相ノ中将は、「貴女のご両親も中納言のことを、あまたの人の中で取り分け優れており、周りの人もたいそう立派で浮気をして女のところに通ったりもせず、余り世間に関わらず妻を大切にしておられるのに、何事で虚しいのでしょうか」と申し上げると、いよいよ愛しくなって、扉を開けて隠さずお入りなるので、侍女たちは「中納言がいらっしゃる」と思って驚かないので、宰相ノ中将はふと四の君に寄りて、

忘れられぬ 心や月に 通ふらん 
   

    心尽くしの 影と見けるは


(貴女のことが忘れられない心が月に通じたのだろうか、月を虚しい影と思っておられるので。)

四の君は様子が中納言と異なるので、「やや」と驚かれるので、乳母(メノト)の左衛門が聞きつけて「中納言がいますと思っていましたが、どうしたことでしょう」と驚きおそばにつくが、四の君はたいそうなご様子で忍んでいらっしゃるのでございました。

宰相ノ中将は、「あゝ残念だ・・・私を冷たく捨ててしまわれましたが、私の執念からは逃れることは出来ないのが定めです。如何に思っても今は想いが月に通じたのですから、さりげなくして置いて下さい」とお話になると、乳母(メノト)が「誰だか分かりました」と申し上げて、以外に驚くが、名をいってもしようがないので、「誰にも知らせないように致しましょう」と四の君に申し上げ「御寝所には入っておられません。私が女君と一緒にいます。皆さんは月や花を観賞していて下さい」と言われれば、「あはれを知っている人に付いていてもらいたわね」といいながら遊びに出かけていったのでございました。

四の君は中納言に倣いて、「男とはただ長閑に思い遣りを持って語り合うのがあたりまえ」とのみ思し召しになるのですが、宰相ノ中将は勝手に入ってきて一方的にもてなすので、なじめず沈んでいらっしゃるのですが、そのご様子は限りなく可愛く優美なのでございました。

宰相ノ中将は、四の君と相見ても、次はいつ逢えるか分かりませんので、「中納言は怪しいかな。たいそう濃やかなのはいい人だと思われているが、自分の妻に聖人(ヒジリ)の様にふるまっているのはまともとも思えない」と世にも珍しく可笑しいと思うのでございました。

二十九 一夜明けて

四の君といつまでも永遠(トワ)にいたい夜でしたが、はや明けてしまったのでございました。乳母(メノト)の左衛門がいらいらして辛がるので、決して帰りたくなかったのですが、いつまでもいる訳にはいかないので、泣く泣く四の君に心の限り契りを頼んで、出て来る心境は夢の様であったのでございました。

我がために えに深ければ 三ツ瀬川 
   

    後の逢ふ瀬も 誰かたづねむ


(私には縁(エニシ)の深い方であるのですから、後の逢う瀬(オオセ)は誰にたづねたらよいのでしょうか。)

「貴女が心をくんで下さらないのが残念です」と申し上げましたが、四の君の返事はないのでございました。左衛門にくどく頼んで置いたのですが、自宅に帰っても夢としか思えず、つい涙ぐんでしまったのでございました。

四の君は、まして驚きはてて現実とも思えず、消え入る心地がして、起き上がることもなさらないのでございました。「お心地が悪いのでは」などと侍女たちがご心配していると、中納言が内裏から退出してお帰りになり、女君は「いやだわ、もうお会いしたくない」と辛そうに寝具をかぶっておられるのでございました。

「どうしたのですか」と中納言がお訊(タヅ)ねになると、そばの侍女が「昨夜からご気分が悪くていらしゃって」と申し上げると、いとおしく可哀想に思われて添い寝をなさり、「いかがなさったのですか、今まで何も聞いていないのですよ」など仰って、たいそうなごやかに優しくお話になると、女君は昨晩の意外な景色が思い出されて、胸がつまりそうになるのでございました。

母上も「具合はどうですか」と心配して、お祭りをしたりお祓いをしたりして、何やかと世話しくなさっているので、中納言も出仕なさらないで、常に女君に添っておられるのでございました。

左衛門にひっきりなしに来る宰相ノ中将の手紙もお見せ申し上げず、逢う瀬は絶えてしまったのでございました。

三十 宰相ノ中将も煩悶

宰相ノ君は、いつもの物思いに先日のことが重なって、寂しく耐え難く、生きている心地がしないのでございました。「長年このような寂しさを痛感していたら、今まで生きておられなかった」とお思いになり、あれこれと悩むが打つ手はないと思われるのでございました。

左衛門の元には、日に千度(タビ)、あの御倉山ではありませんが、山のように宰相ノ君の手紙が届くのですが、若くて思慮のない左衛門は粋で凜々しい宰相ノ君を、命も絶えるばかりに泣いておられた暁(アカツキ)に「深く悩んでおられる」と拝見しているので、手紙の言葉が一途で悲しいので、いとおしく放ちがたく、色めく心も伝って、四の君はあの後考え込んでしまわれて、ご気分がよくなく、中納言がずっと付き添っているので、手紙はお渡しできないことを、いつも同じ様に書いて寄こすのでございました。

「なるほど、ありうることだ」と、四の君の息も消えそうな様子を思い出すと、残念であることも忘れて、恋しさと悲しみに宰相ノ君も起き上がり歩くことが出来ないほどであったのでございます。

呆然と起きたり臥したり、嘆いたりしつつ「中納言は情が深そうに見えるが、どうしたのであろうか。あの夜のことで中納言も泣いて沈んでいるのではなかろうか。見た限りの人柄は、たいそう優雅で目を見張るほど濃やかで、親しみがあり愛嬌もあるようだが、これぐらいのことはこの辺にしてと見切りをつけて、情け深いように見せかけいるのではなかろうか」と推測するのも珍しく変わった友情であるのでございました。

「四の君はこれから打ち解けていくだろう」と思っても、胸はふさがるばかりで、「如何なる方法で自分のものにしたらよいのか」と思って「ただ我に心をゆるし、ほんの一言でもかけてくれたら。といっても、ひたすら押し入ってもだめだ。あれほど少女の様に可憐な様子では、中納言の様に優しく柔らかにしんみりと語りかけることこそ、心にしみじみと深くしみ入るだろう。我を情のない嫌な男と思(オボ)し召しておられるだろう」と思うと、涙も止まらないのでございました。月を見るにつけても、「見る我からの」という四の君の歌の文句をつぶやき、あの時の情景を思い出すと心が乱れてしまうのでございました。

三十一 中納言の参内

中納言は、女君がさしてひどくない状態で日が過ぎていくので、内に籠もるばかりしてはおれないのでございました。父左大臣邸や内裏などに参上なさるので、「このように晴れ晴れしないお心地のなのに、外出するのは落ち着かないかも知れません。起き上がるなどして、試みてみてください。何事も一つ心でいるように申し上げて来たのは、将来が心配にならない手段として、貴女の存在が一番大切だと思うからです。このように沈んで臥していらっしゃると、私も元気でいることが出来なくなりそうです。いっそう快気が難しくなりそうな気がします」と、女君の御髪(ミグシ)を掻きやりつつ、華やかで美しさに満ちた顔に、涙を目にためている女君の視線はとても悲しげであったのでございます。

女君は「いささかの荒々しさもなく、ただ語りかけるだけで過ごしてきた時は、ほんの少しも互いに分け隔てをすることもなかったのに、私の拙い宿命でこの人とも溝が生じてしまうなんて」と思うと答えることも出来なかったのでございます。

また顔を寝具に入れてお泣きになる様子になり、中納言も訳が分からず「もしかして、薄情な男だと誰かが告げ口をしたのか」と可哀想でもあり、悲しくもあり、ほっと息をついて、「では早く帰ってこよう。お側に多く控えて置いて下さい。物怪(モノノケ)などのする技であろう。理解出来ない様子があるようだ」といい置いてお立ちになったのでございました。

三十二 宰相ノ中将を見舞う

内裏に参上すると、尚侍(ナイシノカミ)の君の部屋では、侍女たちが、珍しいことを申し上げて、日頃の噂などをしていると、「宰相ノ君はどうしたのかしら、女の居場所を道案内する者と間違えて、私に恨みばかりいうので、道案内できる人を教えたら、なんとその人が宰相ノ君に惚れてしまったとか、面白いこと」と笑いざわめいているのでございました。

弁の君が「宰相ノ君はお具合がよくないということです。普段ならいとまなく行き会い、うるさいように訪れる方が、このところ訪れないのはありうることです。お気の毒に」と中納言がお聞きになり、驚かれて、内裏より宰相ノ君のところにお立ち寄りになったのでございます。

それを知った宰相ノ君は胸がつぶれるように驚き、対面なさって、中納言が「日頃から女君がご病気で、閉じこもっておりましたが、うっとうしくて内裏に参ってみると、貴方様がお具合いが悪く、久しくいらしてないとお聞きましたので驚いているところです」と聞くと、宰相ノ君は顔が赤らむような気がして、たいそう動揺した様子で「余りひどいわけではありませんが、体調が悪くなることがありますので、安らかにしております。入浴(ユアミ)などをして体調を整えるのに籠もっております。ところで、そちらの病に伏しておられるのはどなたですか。」といったりして秘密を忘れて失言しそうであったのでございます。

中納言には、たいしたことではないと言われるけれど、顔が青ざめ痩せていて、会う度ごとにうるさいほど話をなさるのに、言葉数が少ないので、「いいかげんではなく具合いが悪いのだろう」と思われ気の毒であるが、女君の容態もはっきりしないので、「本当に様子がいつもではなく悪そうですよ。滝がよどんでいるように顔が痩せておられます。体調不良というよりも、お悩みでもあるのではないですか」と微笑みていい当てると、宰相ノ君は顔が赤らむ気がしますが、滝のよどみに笑われて、「くたばった姿は今だけではありませんよ」と仰るのでございました。

冗談をいうほどでもなくしてお帰りになったのでございます。夕暮れのぼんやりした霞の間より匂いのこぼれそうな桜の花も、花が散るまでが目出度いのですが、その様に美しい人を見送って「(四の君は)このように美しい人を朝夕にご覧になれば、我をどの様に思うだろう。これは尽きない真(マコト)ではないか」と思いつづけていると、なんとはなく涙がこぼれて、一睡も出来ず夜をお明かしになったのでございました。






目次のページ