秋の巻 第七章 とまどう人々

百十九 失意の権中納言

ことろで、宇治では幼い若君の乳母(メノト)が夜が明けるまでに、女君がお帰りにならないので、「おかしい」と思うのですが、夜になり格子戸などを閉める時になってもお帰りにならないのでございました。

侍女たちもおかしいと思い、あちこちお尋ねするのですが、言うかいもなく虚しく、思い出す物の隅々までお尋ね申し上げても、何処にもおられなかったのでございます。

そんな時、殿(権中納言)がお帰りになり、「こうこう」と申し上げれば、お聞きになった時に、惑乱して一瞬目の前が真っ暗になってしまわれたのでございました。

権中納言は「いったいどうしたことだ。日頃からどんな様子だったのだ。京の方から訪ねて来る人がいたのか」と、お問いになるのですが、(若君の)乳母は尚侍のことを言うと騒ぎになるので、何も申し上げなかったのでございました。

乳母は、「そういうご様子はありませんでした。女君は幼い若君を目も離さずご覧になりつつ、忍び泣きに明かしてお暮らしになっておりました。なんとなくご同情される男の方がいないかとも思ったりしていましたが、このようにご決心なさっているとは夢にも思っておりませんでした」と申し上げるので、権中納言も何も言えなかったのでございます。

権中納言は、女君には限りなくもてなして来たつもりだったが、四の君のことに没入して、ここにはほとんど近寄らなかったので、「百年の恋も冷めてしまった」と思われたのでございましょう。

見ているだけでは安らかな様子で、見れども見れども飽きることがなく、素晴らしかった愛しさをどうしようもなく、時が経つほど心がかき乱れ、過去も将来も分からなくなってしまったのでございます。

余りに悲しく耐え難いので、相手を探して巡り逢うことすら出来ないのでございました。

百二十 形見の若君

権中納言は、どうしたらよいのかと悲しく、こんなことがあったことも何も知らないで、笑みを浮かべている幼い若君があはれでならないのでございました。

これが最後と思うと思いとどまる絆(ホダシ)しにもなり、捨てがたくたいそうあはれになるのですが、このような幼児を見捨てる女君の心強さを思うとあきれてしまうのでございました。

返す返すいいようもなく、胸も砕けるようで悔しく、女君の冷たさを限りなく思い知らされるのでございました。脱ぎ捨ててある女君の衣の中で、匂いが残っている衣を着て、よよと泣かれるのでございました。このことを夢に見たら、覚めたら名残は大変なものでございましょう。容貌、気配がいいようもなく愛嬌があり、愁いも辛さもあはれに思われてしまうのは、どうしても否定出来ないのでございました。

愛らしげに物をお話になったのですが、その可愛さは例えようもなく、顔から溢れ出る心地がして、泣ききれないほど心に残っているのでございました。

沈みきった権中納言のご様子が深刻なので、侍女たちも嘆いているのでございました。「書き置きした歌などありはしないか」と思いますが、そんなことをするような未練がましい女ではないことは承知しているのでございました。

「あの辺りの人が見ていたところでは、いいようがないほど清らかで上品な貴人で、若い男が物陰に隠れて、美しい女を車に乗せて、何処かへお行きになりました」と侍女が聞いて来て申し上げたのでございました。その話はどういう意味かと考えると、いっそう混乱してしまって、判断のしようがないのでございました。

常に恋をしており情緒深く暮らしてきましたが、最後はこんなにみじめで、悲しさに暮れるとは思いも寄らなかったのでございます。幼い若君だけに希望をつないで涙をながす権中納言でございました。

平素から悲しい歌なども詠んでおりましたが、今の権中納言は、余りの悲しさで、歌も詠めないのでございました。

百二十一 四の君の出産

権中納言が、苦しく悲嘆にくれている間、四の君は思えば胸が砕けそうで、今度も愛らしい姫君をお生みになったのですが、気力のなくなったこの方は、今は産後を願う気もなくなり、消え入りそうにして、息も絶え絶えに、「父君から勘当の許しを得ないで、もう一度お逢いできす、終わってしまいそうだわ」と泣いておられるのでございました。

母上は、「あんまりだ」と申し上げて、泣く泣く殿に「こんなご様子ですよ」と申し上げなさるのでございました。「娘がこの世に、もし生きていれば、世間の噂を考えならねばなりませんが・・・(もしも死んでしまったら)」と申し上げるのございました。

父君は、剛毅にも、「顔もみない」と放逐して、何ヶ月か過ぎると娘が恋しくて心配で、ただ茫然となさっておられたのですが、耐え難い思いでお聞きになって、「どんな子でもそう思うだろう。死にそうな様子で子に死に別れたらどんなに悔しく悲しいことか」とお思いなるのでございました。

父君は別宅へお渡りになってご覧になると、たいそう美しい娘が、息も絶え絶えの状態で、驚くほど長い髪を投げかねて臥しておられる姿は、どんな仇敵であっても、いい加減には思えられないだろうと思われるのでございました。

ましてこれほど愛していおられた親の目にはどうしようもなく、「まろをなんとひねくれて、冷たい親だったとお思いか」と、たまらなく寂しく悲しくなるのでございました。

父君は、「ともあれ、ただ生きている姿を見るのにまさる事はない。神仏よ、我が命を代えて娘を生かし下さり給え」と声も惜しまず祈っておらたのでございました。

殿は、お湯など掬って口にお入れするが、四の君はあるかなきかの夢心地で、父君のお声を聞いて、目を無理に見開いて、お顔を見守っておられたのでございました。

父君は、涙の流れる娘のご様子がたいそうあはれで、ご祈祷を尽くしては、じっと抱きかかえておられるのでございました。

しだいに物の分かる状態になられて、「尼にして下さいませ」と苦しい息の下で仰るのを、不吉で悲しく思われて、「私が生きている限りは、そんな事をお考えなさるな」と泣き惑われて、万事寄り添いつづけておられるのが、嬉しくもあはれでもあり、入浴をお召しなさったせいか、気分がよくなってこられたので、早々と右大臣邸にお移し申し上げて、殿が一瞬も離れずお世話申しあげたのでございました。

権中納言が、女君の失踪の深い悲しみに沈んで訪れなのて、父君の処に移ることが出来たのも、時機がちょうどよかったのでございました。

こんど生まれた幼い姫君には、乳母(メノト)を沢山付けて、「限りなく可愛い」と右大臣はご覧なさっておられるのでございました。ただ、行方不明の右大将から全く消息がないことだけが、気がかりでございました。

百二十二 吉野から京へ

吉野山には、いつまでも籠もって過ごす訳にはいかないし、父君、母上も、たいそう待ち遠しく思われているので、「そろそろ帰らねばならぬだろう」と出発しようとされているのですが、男君(元尚侍)が宮の姉君から離れるのを寂しがっておられるのでございました。

男君は、「この度に京へ」と誘われるのですが、姉君は心細く、「住み慣れた吉野の山陰を、まだ幾らばかりも会ってない人についていくのはどうかしら。妹君を置いていくのも気になるわ。この世の果てのようなところに住み慣れているので、京に入っても同じ麓(フモト)で暮らすことも出来ず、男君をご覧なることも不自由でしょう。宮の父君をほって置いて行ってしまうのも気になるわ。また、京に行っても慣習にもなれず人に笑われることになるのも恥ずかしいわ」と思われて、誘われていく気配がないのを、男君は残念がって涙ぐまれるので、姉君が

住みわびて 思ひ入りけん 吉野山

 またや憂き世に 立ち帰るべき

(長く住んで思い出のある吉野山ですが、また現実の憂き世にもどっても、やって行けるでしょうか。)

「どうかご理解下さい。こんな私を」と控えなさるのが、たいそう由緒正しく、上品で初々しいのでございました。

男君がお答えして、

住みわびて 今はと山に いる人も

 さてのみあらぬ ものとこそ聞け

(この世に住むのがつらくて、今こそと決心して山に入る人も、思い通りにはいかないことを聞いています。山に籠もって住むのが如何に困難なことか・・・)

実際に急いでお連れしても、京でお待ちの東宮(皇太子)の女一宮に最終的には申し上げなければいけないいのですが、紹介するのは、かなり苦しいことなので、やはり時機が早すぎると思われるのでございました。

また、「確かに早すぎる。いらっしゃる場所を邸にしつらえて、きちんとお迎えしよう。この度は隠れ忍んで来たのだから、無理にお連れすることは好ましくない。吉野の宮がお聞になっても、少々驚かれるような場所を用意してお迎えしよう」なと思われて、女君(元右大将)と二人でご出発されたのでございました。


百二十三 父母の喜び

暗さに紛れて京の左大臣邸にお着きになったのでございます。

女君を尚侍のおられたように御几帳(ミキチョウ)にお入れして、男君は御前にお座りになったのでございます。父君がそれをご覧になって、「取りかへばや」の嘆きはなくなり、嬉しさに涙にくれて、お見えになれないほどであったのでございました。

新尚侍(元右大将)は、たいそう美しく、愛嬌があり華やかで、御髪(ミグシ)は艶やかでゆらゆらとかかり、たいそう目出度く、ふっくらした様子でおられるのも夢のように思われるのでございました。一方新右大将(元尚侍)は、得もいわれず清らかで、美々しく座っておられ、現実とも思えないのでございました。

父君は、「どの様にしてこのように代わったのか」と不思議で惑われるのも道理でございました。

この頃の事をお聞きになって、「元々この様であるのが自然だったのだが、たいそう珍しい有様であった。おのおの心を変えることなく、このままでいなければいけませんぞ。容貌が二人で違っていたら、こうはいかなかっただろう。いささかも違うところがないのが不思議であり、そのような運命だと思っていた。今は早く右大将として行動しなさい。見るにつけても全く違いがない。少々は違うと思っても文句をいう人などはいないだろう。右大臣の娘の四の君も権中納言と関係があったようだが、右大臣も勘当を許して、自宅に迎え入れたよし。様が異なるのは内々だけだと思いなさい。ただ世間の噂が不都合だ。お前たちのためにも心せよ」と父君が囁くと、新右大将がプレシャーで動揺するのでございました。

さらに父君が、「尚侍(ナイシノカミ)は、この頃いつもと違い調子が悪うございます」と申し上げていると、東宮(皇太子)から御使いが参り、「いかかでございますか。女一の宮様もお心地が例ならず、早くいらして欲しいという御心地でございます」と申し上げたのでございます。

さらに、愛娘(マナムスメ)の容態を心配する右大臣のお心地もたいそうあはれであることに変わりはないのでございました。

父君が、「右大臣様には、かの件で右大将は世を悲観して、吉野の宮のところに隠れておりますと話してあるが、状況が一変したので、早く宮中に復帰しなさい」といわれますと、新右大将は「宮中の勤めは初めてなので・・・」とご自身もおもはゆく感じなさっているのでございました。

世間の噂は、どんな場合でも、もっともらしくつじつまを合わせるものでございます。父君は、「右大将は、権中納言の件で落胆して、吉野の宮のもとに隠れて、出家をしようと思っていたが、宮の姫君がお世話なさり、出家は出来なくなったものの、京に帰るのは諦めていたが、父がもう命も最期になり右大将の顔をもう一度だけ見たいと訴えると、考えた末京に帰る決心をしたと話してある」と仰り、新右大将に親心を教え諭したのでございました。




これで秋の巻第七章を終わります。


目次のページ